国の病像論の考え方に対する批判

 

原告ら代理人   宮  田     学

 
 

一 はじめに − 国の犯罪性 −

 

 熊本地方裁判所の第3次訴訟判決に対して、神戸大学の阿部泰隆教授は、『ジュリスト』889号25頁で、次のように述べております。
「この判決を読んで感ずることば、水俣病は‥‥‥まさに私企業と国家の結託した不法行為であり、犯罪であるということである」
 つづいて阿部教授は、
「産業育成ばかり考え、原因究明を妨害し、業務上過失致死へ加功したに近い通産省、それに引きずられて、食品の安全性、国民の生命・健康の保護というその使命を忘れ、後手後手行政に陥った厚生省の誤り」を指摘したうえで、「これでは、本件は単なる私人間の不法行為を防止しなかったという行政の危険防止責任の問題ではなく、国の直接の加害責任に近い。」と結論づけております。

 阿部教授の右論文は国・県の不作為責任についてのみ考察を加えたものですので、国・県の犯罪的対応の指摘はそこにとどまっております。しかし、実は、国・県はさらに水俣病患者を救済するという面においても犯罪的といえる対応をくり返してきたし、今なおくり返しているのです。

 現に、本日提出の準備書面において、被告国・県は、恥も外聞もなく消滅時効や除斥期間を援用する旨の主張まで述べるに至りました。審理の終結をまぢかにした段階で時効や除斥期間の主張を出してくるのは、敗訴を覚悟した被告側がとる常套手段であります。

 国・県は水俣病かくし、水俣病切り捨てに奔走してきた犯罪的歴史を有しております。そのような当事者が時効や除斥期間の主張を援用することが許されないことは、言うまでもありません。
被告らは、悪あがきを直ちにやめるべきであります。

 
 

二 国の歪められた病像論

 
1 はじめに
 

 さて、被告国・県の水俣病の病像に対する主張がいかに歪められたものであるかは、既に原告ら最終準備書面第2編で相当程度述べております。原告らは、本日さらに被告主張の不当性を指摘する書面を提出いたしました。
 ここでは被告らの基本的な主張の誤りについて、要点のみを簡単に指摘するにとどめたいと存じます。

 
 
2 病像論を論ずる基本的視点
 

 第1に、病像論を論ずる基本的視点についてであります。

 被告らは、水俣病とは何かは、専ら「医学的」に決定さるべきであると主張しております。
 問題は、そこにいう医学上の水俣病なる概念の中身であります。水俣病が有機水銀による健康被害であることについては医学上異論ありません。しかし、水俣病は人類がこれまでに経験したことのない大規模かつ深刻な環境汚染による健康被害であり、急性激症例・典型例から慢性・不全型、さらには症状が必ずしも把握できない例まで様々な態様があることが知られるようになっております。

 ところが、被告らが援用する医学というのは、右のうち急性激症例ないし典型例に関する臨床上・病理上の知見にすぎません。そしてこれに固執するところから、この知見を一般化し、典型例が有するハンター・ラッセル症候の全部ないしは主要なものをかねそなえた者のみが水俣病であるという誤った考えが生まれてくるのです。
しかしながら有機水銀に汚染された魚介類を長期にわたって摂取したという事実からすれば、症状の揃った典型例が発生するにとどまらず、ある症状は日立つが他の症状は見えにくくなって症状間に不揃いのみられる慢性・不全例も発生することは当然のことであります。

 にもかかわらず、被告らがハンター・ラッセル症候の揃った者のみを水俣病とするのは、何も医学的必然からくるものではありません。それは、認定制度が「チッソの補償金を受け取る資格があるか否か」の判定制度となり、結局患者切り捨てのための制度となっているからであります。切り捨てのためには、ハンター・ラッセル症候の揃ったものだけが水俣病だとする見解(それは被害の実態とは全くかけはなれた、そして従前の研究成果を無視した誤れる見解でありますが)、これが被告にとって都合がいいから採用しているにすぎないのです。

 水俣病とは何かを論ずるに当たって、医学的知見を基礎にすべきであることは当然です。しかし、その医学的知見は被害の実態に即したものでなければなりません。被害の実態とかけ離れた医学的知見を病像論の基礎とすべきではありません。
そして、水俣病であるかどうかは、右のような医学的知見を基礎にしつつ、社会的に救済さるべき範囲はどこまでかという視点から、社会科学的に確定されるべきなのであります。

 
 
3 水俣病とはいかなる疾病か
 

 第2に、「水俣病とはいかなる疾病であるかについて」であります。

 「水俣病とはいかなる疾病であるか」という点に関する被告らの主張は、混迷と矛盾以外の何者でもありません。被告ら準備書面をいくら精読してみても、被告らが何をもって水俣病と主張するのか判然といたしません。

 我々は、被告らが水俣病とするのは、52年判断条件の定める症状組み合わせに合致したものであろうと考えておりました。ところが、どうもそうではないようです。被告らは、昭和52年の「判断条件に該当しているということが当該人が直ちに水俣病にり患しているということを意味するものではないことも明らかである」と準備書面3(187〜188頁)で述べているからです。
 この論理からすれば、判断条件に該当しても、したがって水俣病と認定されても、水俣病でないという奇妙な結論になるでありましょう。

 しかし、原田正純熊大助教授外第一線で水俣病の治療研究に当たってきた医師の間では、何が水俣病であるかという点については見解が一致しております。我々の水俣病についての考え方は、そういった研究成果に依拠しているのであります。
  すなわち、我々は、水俣病とは次のような疾病であると考えております(胎児性水俣病は除く)。
「水俣病は、被告チッソの排水中に含まれた有機水銀により汚染された不知火海の魚介類を経口摂取することによりひきおこされた有機水銀による健康被害であって、左の要件に該当するものをいう。
@ 不知火海の魚介類を多食した有機水銀汚染歴を有すること。
A 四肢末梢型感覚障害を主徴とする有機水銀中毒の症状を呈すること。
B 右の症状が専ら他疾患によるものであることが明らかである場合を除くこと。」
以上のように考えるのが正当であります。

 
 
4 水俣病の診断について
 

 第3は、「水俣病の診断について」であります。

 被告らは、検診医が患者の所見をとり、その資料に基づいて認定審査会が判断条件に当たるかどうかを判断するまでの過程を、「水俣病の診断」と称しているようであります。しかし、それはおよそ診断の名に値しないものであり、その実質は被害者切り捨ての手続にはかなりません。

 そして、そのために用いられる水俣病を否定する手口は、次のようなものであります。
 1つには、「症状はできるだけとらない」ということです。
基本的に、患者の訴えは信用できないという観点から、患者が訴えても、症状としてとらないことが多いのです。
また、慢性水俣病患者には、一様に、多彩なかつ一定のパターンの自覚症状の訴えがあります。これも水俣病の診断のために重要な症状と考えられますが、被告らは、これら自覚症状を無視しております。
さらに、被害の実態に目を向けず、いたずらにハンター・ラッセル症候に固執した医学的知見に立つために、水俣病の症状とすべきものを否定してしまうという例も多いのです。
 2つには、複数の症状をとった場合には、その症状をばらばらに分解したうえ、それぞれにつき他疾患で説明しようとしております。しかもその場合、その症状が他疾患に由来するかどうかの検討は、ほとんどしておりません。
 3つには、どうしても他疾患で説明できない症状が残った場合には、その症状は非特異的なものであるとして、結局それだけでは水俣病と言えないとする手法です。
 4つには、有機水銀汚染歴を無視ないし軽視する手法です。

 水俣病は、有機水銀による環境汚染によって生じた中毒症でありますので、水俣病の診断にあたり、有機水銀の汚染歴が重視されなければならないのは当然であります。

 ところが、審査会は、水俣病であるかどうかの判断をするにあたり、有機水銀汚染歴を無視しているのです。
 加えて、被告らは、メチル水銀に汚染した魚介類を多食したとして原告らが主張する事実があったとしても、メチル水銀の人体蓄積や発症閾値の関係から必ずしも水俣病が発症するとは限らないから、「右事情が水俣病か否かの判断において果たし得る役割に限界のあることも多言を要しないのであろう」などと準備書面で主張しています。たしかに、原告らが摂取した汚染魚介類の量を客観的に把握することは困難でありますが、しかし、それは被告らが住民の毛髪水銀量の検査等必要な調査を実施しなかったためであって、原告らの責任ではありません。

 そもそも、水俣病の判断をするのに、そんな正確な摂取量など必要ではないのです。逆に言えば、摂取量がはっきりしないのに人体蓄積や発症閾値を云々する被告らの主張こそ、まやかし以外の何物でもありません。

 
 

三 国・県は今こそまともな対策を

 

 最後に、冒頭にも紹介いたしました阿部教授の論文の次の部分を指摘し、被告らが不当な抗争をやめ、本件原告らを直ちに救済することを含めて水俣病問題をどう解決していくかを真面目に考えていくことを、被告らに求めたいと思います。

「これだけの誤りを指弾されながらなぜ国は抗争するのであろうか。今日の担当者も本当に当時の対応が適法であったと考えているのであろうか。組織内部の自己に有利な情報のみ信ずるのか。あるいは、それとも、日本の行政当局は、組織防衛や組織の一体性の意識が強く、敗訴すると組織の正当性が脅かされるとか、先輩の誤りはとりつくろわなければならないと考えるためだろうか。
 しかし、すでに事件から30年たち、当時の失敗は歴史的な事実である。当局者がここで先輩の誤りを弁護することは自分も同じ誤りをおかすことになると考えるべきであろう。むしろ、当局者はここで、当時の誤りを反省し、水俣病はまだ終わっていないこと、その原因のかなりは行政の無策にあることを認識して、被害者の迅速な救済へ向けて前進的施策を講ずるべきではないか。」(『ジュリスト』889号25頁)。

 
(1989年9月29日)